日本仏教に関すること2件 その1

天台宗と真言宗、いわゆる、密教については、学生時代に関心を持ちました。

比叡山にも高野山にも行く機会を得ていないのですが、

密教に関する、今の私の考え方は、平安期の大和朝廷の貴族階級にとっての、明治期貴族のキリスト教文化みたいなものと理解しています。
つまり、外来文化への憧れの対象です。

なので、密教の教義による、日本の四国遍路は、日本人の文明に対する理解の低さの現れと捉えています。

また、多くの日本人は、密教と修験道を混同しているようにも感じられる。

密教とは、中国で発展した仏教の教義の一つである。

修験道は、日本の自然崇拝の一つであり、山野を修行の場として駆け巡るのであるが、これは、平安期に日本固有のものとして発展した、宗教と言うか、鍛錬というか、悩んでしまうが、密教ではありません。私は、修験道とは、現代なら、マラソンランナーが感じると言う、ランニングハイによるエクスタシーを得るものなのではないかと、勝手に考えています。

一方、東洋の神秘である禅については、二つの面を考える必要があると思っています。

一つは、私の日本史の記憶が間違っていなければ、禅は、応仁の乱後の、室町時代公武政権の、武士階級に広がったと言う点です。室町幕府とは、南北朝による日本の疲弊期を過ぎて、安定を取り戻した、公家と武家の合体政権です。

公家には、既に密教と浄土宗と言う極楽への道が有った訳ですが、坂東その他地域から京に集まった武家には、浄土宗を含む既存仏教の教義は、難解であったでしょう。しかし、農民に浸透していた、一向宗や日蓮宗のように、特定の念仏により、成仏すると言うことも、戦を死に場とする、武士階級には、与することは出来なかった。すると、禅宗の、座禅と言う手段を通して、戦場の記憶と京の平穏との間の心の平衡を、武家らしく得ることができたのでは無いかと言うことです。

二つめは、現代のような、脳科学や精神医療がなかった時代において、現代の、気分障害などのために行われる、カウンセリングや、セラピーなとが、禅と言う、『手法』には、あるのではないかと言うことです。

キリスト教徒の欧米の方たちが、『座禅』や、インド巡礼などに神秘主義的な関心を持たれるのは、恐らく、脳と言う、生物の一つの臓器の機能に対して、心臓や胃腸などの臓器とは、異なる、いわゆる『パワー』が潜んでいるのではないかと考え、それは、キリスト教徒の義務である、神への祈りだけでは、得ることが出来ないと言う、疑問を持たれるからではないかと推察しています。

私は、脳とは、神経細胞が、1箇所に集まった臓器としてしか認識していませんので、いわゆる、『パワー』なるものは、存在し得ないと考えています。よって、『座禅と言う、普段と異なる環境に脳の神経細胞を曝す』ことには関心はありますが、座禅を通して、仏教徒の最高の段階である『悟り』には、至ることはあり得ないと考えています。

あくまで、現代のカウンセリングやセラピーとして機能である、脳の神経細胞の平衡を取り戻す手法であると言う考えです。

禅に関する考え方は、前提にした、日本史の記憶が間違っていると、全くの誤解となります。

因みに、私の家内の父の葬儀は、浄土真宗により、私の父の葬儀は、浄土宗により行われ、二つの宗派の葬儀における読経を聴き比べる機会を得ましたが、

浄土真宗の読経は、言葉が、平易であり、浄土宗の読経は、古語が多く難解と言う感想を持ちました。

浄土宗の導師殿に、率直に、その感想を質問しましまたら、確かに、浄土宗の読経には、梵語のままの言葉が少なくないと言う、お答えを頂いた次第。

読経には、日本の時代が、未だに残っています。

21世紀的であるとは。

西欧の第二次世界大戦までの多くの戦争は、素をたどれば、ゲルマン諸民族間の領地争い。日本の豪族たちの戦みたいなもの。

例外は、ナポレオンとナチスの侵略戦争。

今、日本が準備しようとしているのは、そのどちらにも属さない、文明間の戦いです。

それならば、戦争と言う手段ではなく、産業革命以降の現代文明から、いち早く、次の文明を構築すれば良い。
16世紀のスペインやポルトガル、18世紀以降のGBのようにです。

21世紀が、日本の世紀とみなされるよう、文明の本質的変化をしてしまえば、究極の安全保障政策になるのです。それは、エネルギーと食糧の自給を達成することです。

株式指標の特定周期による価格変動予測の有意性への疑問について

株式指標(日本であれば,日経平均,または,TOPIX)のチャートを見ていると,何がしかの周期的な規則性があり,その周期性に着目すれば,有利な株式取引ができるのではないかと考えられ易い。

実際,「日経平均,周波数解析」や『日経平均 FFT』などをキーワードに検索すると,そのような記事を読むことが可能である。

しかし,私が行った,2007年1月から2014年6月までの日経平均とTOPIX日足終値の周波数解析において,そのような特徴ある株式指標の周期を見いだすことは出来なった。

論議を簡単にするため,まず,原データを示す。以下に使用した日経平均終値の時系列データを示す。

この時系列データから,周期性を議論することは不可能に近い。このデータを基に,周波数解析した結果を次に示す。一般に周波数解析では横軸は周波数であるが,株式指標変動においては,周波数の逆数の周期を使用した方が理解し易い.まず,横軸,縦軸とも線形軸として示す。この図では,1年の商い日を244日としている。下の図には,約300日と700日に少し目だつピークがある。

解析期間の平均値を基準に,変動幅をパーセントにして,かつ,横軸と縦軸を両対数軸にしたグラフを継ぎに示す。 対数表示にしたため,取引日が2日から2000日までが見通し易くなった。また,縦軸は,平均値に対する,日経平均の変動幅を表している。注目すべきは,幾つかあるが,
(1)営業日2〜5日:周波数解析結果がほぼフラットな状況を示している。これは,5営業日までなら,大きな価格変動が起き難いことを表している。
(2)約100日に着目すると,変動幅は1%になる。つまり,ある日株を買って,100日保有していると,1%の値上がりか,値下がりが起きることを表す。
(3)更に着目すべきは,100日から2000日以降である。横軸周期が大きくなるほど,縦軸の値が大きくなる。これは,周期が長いと,ほぼ,単調に価格変動が大きくなると言うことである。
(4)下のグラフに,2000日の周期の変動幅よりも顕著に大きな価格変動を示す周期は見当たらない。これが何を意味するかと言うと,株は保有期間が長いほど,価格変動の影響を受け易いと言うことである.上手くすれば値上がり.運が悪ければ大損である.

検索で探せる同様の解析記事を読むと,フーリエ変換を使って,未来を予測して,株式の売り買いをしようと考える人がいるようであるが,これは,ナンセンスである。なぜなら,周波数解析は,過去の有限時間のデータを三角関数の集まりとして表す数学的手法である。フーリエ解析を使って見いだした任意の関数が,時間を外挿した未来に適用できると言う数学的な保証は一切無い。

フーリエ変換を無限大の過去から,無限大の未来までのデータに適用できれば,ある時刻以降の関数の変化を予測できるが,未来のデータは入手不可能であるから,過去のデータを用いてしか時系列データ(時間の関数)のフーリエ変換結果しか得られない。よって,フーリエ変換を使って見いだした時間の関数は,解析に使用した元データそのものである。それを,未来に外挿して適用しても,原理的に,未来の株価指標は予測不可能である。

なお,株価チャートにおいて,20日移動平均曲線等が用いられるが,今回の三枚目のスペクトラムに示すように20日な特徴的な傾向は見られない。

唯一見られる傾向は,株価指数は約240日営業日,360日程度の営業日で若干上げ下げする。これは,配当の権利確定日のリップルであろう。

株で利益を上げるためには,精々10日程度を保有期間として,期待値を1%と割り切って,細かい売り買いをするしか無いのではないと言うのが,今回の解析結果の結論である。

周波数0Hzとは何物か?

周波数0Hzと言うのは、実生活で良く出くわす。

最も身近なものは、乾電池の電圧であり、直流と呼ばれるものである。

しかし、乾電池の電圧は、段々と小さくなってくるので、一般的な、マンガン電池やアルカリ電池では、ある日突然に、電化製品のリモコンが使えなくなり、当然のように、電池の交換を行う。

直流は、周波数では、0Hzになるのであるが、時間に対して電圧計降下するのであれば、長い時間で考えると、一定電圧を維持するものでは無い。

これが、リチウムイオン電池のように再充電できる電池であれば、電池に接続された電子回路が、直流電圧で動作するとしても、リチウムイオン電池の出力電圧は、放電と充電により、DCバイアスされた周期性のあるものとなる。

しかし、ある一定の時間においては、リチウムイオン電池の出力電圧は、0Hzとみなせる。

数学的に周波数0Hzを、定義しようとすると、無限大の時間の逆数となる。

つまり、長時間の信号を計測すればするほど、0Hzの信号の成分は小さくなる。

現実的には、無限大の時間の信号から、0Hz成分は見出せない、連続関数のフーリエ変換の結果は、一般的には得られないと言うことになる。

すると、有限時間の信号から、0Hz成分を考えることになる。これは、フーリエ変換を適用する時系列信号の長さにより、0Hz成分のパワーが変動することになる。

現代では、離散フーリエ変換が一般的であるから、有限時間の離散数列により定まる周波数分解能の、最も低い周波数よりも、更に低い信号成分が、0Hzのパワーとなる。

人の時間スケールは、秒から年であるから、1Hzから、0.00001Hz程度のオーダーとなる。

しかし、自然界には、より低い周波数も、より高い周波数の現象がある。

宇宙で最も長い現象は、ビックバン以降に宇宙の時間であるが、それを観測し続けてはいないので、ある瞬間のデータを以って、考察しなければならない。

すると、それは、宇宙の全時間からすると、ほぼδ関数とみなすことになり、離散フーリエ変換すると、広帯域に分布してしまう。

何を言わんとしているか?

人の時間スケールで、宇宙や地球のことを考えるのは、あまり無意味だろうと言うことである。

まして、数十年のホモサピエンス同士の諍いによる、地表面の物理現象への影響なんて、宇宙の全時間で周波数解析したら、ほとんど小さなリップルにしかならないであろうと言う予想である。

地震予報は不可能なのか?すべきだと思うのだが。

非破壊検査の手法の一つに、アコースティックエミッション検査(Acoustic Emission Test、略してAE、または、AT)と言うものがある。

超音波を使った非破壊検査手法の一つである。

超音波を使った非破壊検査手法として、一般的なのは、医療用ソナー検査に用いられている手法である。すなわち、超音波を発信と受信の両方が可能な、計測装置とセンサーを用いて、検査対象に能動的に超音波を伝播させて、エコーと呼ばれる、反射波を受信して、送信と受信の時間の差から、検査対象の位置を求める方法である。医療用も工業用も超音波検査装置の原理は、同じである。その差は、医療用では、超音波は、ほとんど水の中を伝播すると見なせるため、音の縦波のみを考慮すればよいのに対して、工業用は、固体中を伝播するため、縦波と横波(固体中の横波は、せん断弾性率が、体積弾性率に対して無視できないため)の両方を考慮しなければならないことである。

すなわち、一般的な超音波検査とは、電波を使ったレーダーと似ている。

一方、AEでは、超音波を受信するだけである。AEは、固体を主たる検査対象とするが、固体に変形や損傷が発生すると、その部位から音が発生する。特に変形や、小さな損傷の発生時の音のレベルは小さく、周波数が高い。これは、エネルギーの小さな音の発生である。このような場合、可聴帯域ではなく、超音波帯域の周波数の音の方が聞き取り易い。実際には、可聴帯域の音も発生しているはずであるが、可聴帯域の音は周辺に多くの音の発生源があるため、ボリュームの小さな音を聞き取りにくい。そのため、超音波帯域が使用される。

AEで、固体の変形を観察していると、目視で確認可能な破壊が生じる前から、予兆が発生していることがわかる。

複数の箇所で、AEを測っていると、同じ場所で発生した音を時間差で、捉えることが可能である。そのため、AEでは、変形や損傷が起きた場所の特定も可能である(これを、位置標定 と呼ぶ)。

AEは、超音波帯域の音を利用しているが、可聴帯域よりも低い周波数を利用している検査方法がある。地震計である。

地震計は、震源から伝播して来た、固体中の縦波と横波を測っている。原理的には、三箇所の地震計で、同一の地震を検知すれば、震源を求めることができる。

そして、地震計は、常時計測をしているから、震度1に満たない揺れも観察している。AEが、小さなボリュームの音を使って固体の破壊の予兆を知ることが出来るのと同様に、地震計でも、地震の予兆は観察できているはずである。少なくとも、身体に感じない震度1未満の地震がいつもと同じ傾向か、異なる傾向を示しているかはデータとして現れているはずである。

このようなデータは、気象庁や地震の研究者は見ているのであろうと思うが、一般には公表はされていない。

しかし、地震の多い日本列島であり、恐らく、世界的に見ても地震の研究が進んでいる日本である。

正確な地震予知は不可能であったとしても、地震の予兆が、起きているのかどうかは、天気予報のように、デイリーに発表されるべきではないかかと考える。

データに生じている変化に注意を要すべきか、無視できるかぐらいは、天気予報と一緒に予報すべきである。

M7の地震の発生を予想できなくても、M4以上の地震が発生する確率ぐらい、過去の計測結果との対比で可能なのではないか?

地震予知ではなく、地震予報を日常化すべきであり、難しいことではないと推察する。

難しいのは、地震観測担当者と地震研究者の予兆を観測することへの甘えが許されなくなると言うことである。

地震は、プレート型だとか、直下型などの震源による分類があるが、雨が降る原因が低気圧のためか前線のためか、台風のためかの違いに差はなく、雨は雨である。風だって、同様である。

であれば、持っている地震のデータを基に、今の技術で可能な範囲で、地震予報をすべきである。

経済学的エネルギーへの、熱力学第二法則を考慮することについて

エネルギーは物理学的には、仕事をする能力のことであり、スカラー量である。

エネルギーの巨視的な考察は19世紀までの熱力学により完成している。

また、物理学の最も基本的な考え方は、閉じた系においては、エネルギーが保存されることである。

一方、エネルギーという単語は、経済用語でもある。どれだけのエネルギーを自由に使えるかは、豊かさを表すと指標でもあり、戦争の原因であったりもする。

カルノーの熱の研究に基礎を置く熱力学の恩恵を象徴するのが、火力発電所と原子力発電所である。

この二つは、エントロピーの小さな化学エネルギーと核エネルギーを、一旦、エントロピーの大きな熱エネルギーに変換し、そのあと、タービンにより、エントロピーの小さい電気エネルギーに変換する。

火力発電所も原子力発電所も、閉じた系とすれは、エネルギーは保存されるはずであるが、カルノーの熱効率の関係により、排熱の温度が、0Kにはできないため、外部の系との熱交換により、エネルギーの損失が生じ、すなわち、熱効率は、100%には、絶対になり得ない。

一方、太陽光発電や風力発電は、自然エネルギーや再生可能エネルギーとよく分からない呼び方をされるが、物理学的には、エントロピーの大きなエネルギーから、エントロピーの小さい電気エネルギーへの変換技術である。

エントロピーも物理学上の概念であり、直接的に測り得ない物理量であるが、太陽光や風力は、火力発電の燃料や、核分裂物質と同じ体積で比較すると、エネルギー密度が小さい。

よって、太陽光発電では、広い太陽光パネルが、風力発電では、大きなブレードを使用して、エネルギー密度を高めるエネルギー変換を行う。

火力発電や原子力発電は、エントロピーの小さいエネルギーから、電気エネルギーを介して、最終的にはほとんどが熱エネルギーというエントロピーの大きなエネルギーに変換されるから、一方向のエネルギー変換ルートである。

太陽光発電は、地球の外の系から入ってくる、光エネルギーであるから、地球をエネルギー的に開いた系として考えないと、エネルギー効率の計算は意味をなさない。

風力発電は、地球を閉じた系と考えたとき、エントロピーの大きなエネルギーから、電気エネルギーを介して、再び、熱エネルギーのエントロピーの大きなエネルギーに変換する。

水素エネルギーが注目されているが、風力発電と組み合わせることが実用的になれば、水を媒質とした、地表面での閉じたエネルギーと物質の系になる。

エネルギーという単語は、現代では、物理学的に使われるよりも、経済的な意味で使われることが多いが、一般には熱力学の第一法則のみが重要視される。

しかし、熱力学第二法則まで考慮して、経済学的なエネルギーを考えると、エントロピーの大きなエネルギーの変換する閉じた系というのは、19世紀的な文明から、21世紀的な文明への変化であると見なせる。

残念なことに、熱力学の第二法則をしっかりと教える学校は限られている。

多元的宇宙論がSFから科学になってきたらしい。

多元的宇宙論が,SFではなく,科学に成って来たことが書いてあります。でも,これって,絶対神が宇宙を創造したと考えるから,多元的宇宙論に新規性があるのですが,曼荼羅の世界である,萩尾望都さんの『百億の昼と千億の夜』(原作 光瀬龍さん)を読んでる私らにとっては,不思議でも何でも無い。

宇宙とは大きなタマネギやキャベツ畑みたいなもので,人間なんて,キャベツ畑の中の一つのキャベツに寄生している毛虫みたいなものではないかと,しばらく前から考えるようになりました。太陽の沢山の集まりである銀河が沢山あることが分かっているのだから,銀河の集まりである『宇宙』も沢山あっても不思議ではない。宇宙が沢山あつまったものを『超宇宙』とでも名付ければ,『超宇宙』の集まりである『超超宇宙』もありだろうと思います。もちろん,その『超超宇宙』の集団もありです。

と,言うことは,人は,永遠に神の創造した宇宙の姿の全貌を見ることはできないと言うことになります。それは,宇宙を創造した絶対神などいないとすることが真であるということの逆説的証明となる。

話しは飛びますが,一神教の支配する地球とは,人の歴史の中で,とても短い歴史上のことであって,宇宙は神が創造したものではなく,宇宙は神が現れるずうと前からあり,ただ,姿を色々変えているだけで,数学的極限である,『無限大∞』とは,実在するのではないでろうかと,『子どものようなこと』を,この記事から思うわけです。

一神教の神よりも曼荼羅の方が,宇宙の正しい姿ではないかと言うのが,この記事の結論です。

In Lopsided Map of the Cosmos, a Glimmer of Its Origins http://shar.es/xDJ5l @SimonsFdnOrgさんから

理系に必要な歴史および政治経済教育。文系に必要な理系教育。

何故なのか,理解できないのであるが,日本の高校(学校によっては中学校)で,進路を文系と理系に分ける。そして,ほぼ大多数が文系を選択する。その理由は,数学と物理・化学が苦手だという理由のため。

しかし,21世紀の現代において,理系だの文系だの学問の壁を作っている余裕は無いと考えている。

堅い言葉は不要であるが,思想を持たない研究開発はムダであり危険である。 科学知識のない人が選択できる職種は限定され,就活とかいうムダな努力に時間とお金を使わなければならない。

他国の教育制度について無知であるが,理系と文系とかいう二者択一の進路指導をしているのは,希有なのでは無かろうか?

理系の科目とは数学・物理・化学・生物・地学。文系の科目とは古文・漢文・世界史・日本史・地理。英語は理系も文系も共通であろう。

数学・物理・世界史とは,18世紀まではすべて哲学であり,同一のものであった。化学は錬金術。生物と地学と地理は博物学である。日本にそれらの科目を輸入するときに,細分化したに過ぎない。なぜなら,明治に西欧文明を輸入する際,西欧の一般教養を一遍に輸入できなかったため,細分化して専門家を育てた名残であろうと思う。

20世紀半ばまではそれで良かった。時間の流れが緩やかであったからである。1冊の本をゆっくりと読んで,手紙で連絡を取り合い,コトが済んだ。

しかし,21世紀の現代では,そんな悠長なことはできない。職場で,毎朝のルーチンワークは,重要なメールが届いていないかのチェックであり,場合によっては,一通のメールへの対処が大事になる。数行のメッセージから,多くのことを考えなければならない世の中になってしまった。

そうなると,個人の持つべき素養は,自分は理系だの文系だのと,古い時代に定められたようなものでは済まない。

理系の学生の最も足りない知識は世界史である。別に何年に何が起きたと言うような事象の暗記ではない。西欧史だけに注目すれば,ルネッサンスとニュートンのプリンピキアがどのような時代に起きたか?産業革命を起因とする,現代までの影響はなにか?物質の原子論が確立したのはいつ頃であったのか?DNAの二重らせん構造が発見されたのは何年前か?精々,この程度のことで良い。つまり,科学技術が,世界史を変えたということに関心を持っているか?そして,研究者としてであろうが,技術者としてであろうが,科学技術に関わるということは,歴史を変えることに参加すると言うことに他ならないと言うことに気づけるかにある。

一方,文系の学生に足りないのは,圧倒的に数学の知識である。数学を毛嫌いしている人は少なくない。しかし,企業に就職した多くの人が,数学を真剣に勉強しなかったことを悔やんでいるはずである。特に,メーカーに就職したならばだ。企業は数字で溢れている。利益計画は数字で示される。その達成手段も数値化される。精度の高い見積書を作るのには,自社の技術の定量化ができないと不可能である。客からの要求は高度な技術仕様であったりするが,科学的素養の無い人は,その意味するところが理解できずに,客先に笑顔だけを持って行って,「素っ頓狂」扱いされる。 そんな実利的なことではなくても,世界史,そして,現代社会に科学技術が及ぼした影響を,自身で考察することが,「単に数学が分からない」と言うだけで,できない。なので,「分かりやすい***」だの「マンガで読む**」なんていう,何の役にも立たない本を読むはめになる。

多くの人にとって,高度な専門性は不要である。しかし,広い教養は必要である。

理系にとって,世界史,特に,ルネッサンス以降の西欧史は不可欠である。文系にとって,ニュートン以降の科学史は不可欠である。ルソーやカントやニーチェを理解するために,当時の科学レベルがどういうものであったのかを知らずに,哲学書だけ読んでも無意味である。

高校が,大学受験資格を得る場ではなく,日本人の教養レベルの平均値を維持する場になることを切に願う。

私的日本教育改革論

お金じゃぶじゃぶ状態を無理矢理作って、一時的に、国をお金持ちに戻そうとしている。

じゃぶじゃぶの散財の祭の後のことは、あまり語られることは無く、今にしか視点が配られていない様に感じられて仕方がない。

散財のツケを払うのは、使った本人ではなく、子や孫である。それも、身内ではなく、無関係な若者や子供達である。

その若者や子供達は、公教育制度が整備されている筈の日本において、私的教育機関である、学習塾や予備校などに、私的費用負担を強いられている。

即ち、日本の公教育制度が、正常に機能していないと言うことである。

その理由は、部外者には分からない。しかし、文科省の学習指導要領などを読むと、おぼろげに気づくのは、公教育における、教育内容の『古さ』である。特に、中学校と高校の理科と社会科が実社会との乖離が激しい。

例えば、高校の物理では半導体を教えない。液晶に関する記載もない。リチウム電池の記載も無い。未だに、斜面を滑る消しゴムや、電磁誘導を教えている。

社会科は、科目が細切れ過ぎる。歴史は単に起きたことの羅列である。現代社会と言う科目があるが、これも項目の記載だけである。何が問題かと言うと、歴史的事件と宗教、思想、科学技術との関連が語られていない。東アジアの歴史とヨーロッパの歴史を、事件の羅列として教えても退屈なだけである。現代の複雑な世界を考察するためには、単なる事件の歴史ではなく、比較文化論的に、宗教、思想、科学、文明論などをまとめて、歴史を教える必要がある。つまり、高校までの社会科教育の目標レベルが低い。

公教育は、制度ではなく、目的と目標と運用をまとめて見直さられるべきである。

現在の義務教育制度は、明治維新以降の、富国強兵政策の一環として整備された名残りである。そのため、一兵卒、工場労働者を作るための教育内容に留まっている。

高校教育、特に、普通科高校は、事務作業の職場が数多く有った時代の名残りである。高校卒資格で、それなりの仕事が出来るようなカリキュラムが組まれたままである。

しかし、現代は、中卒の半分が大卒になる。工場労働者育成教育の価値も事務作業者育成教育の価値も公教育機関から失われている。

かつ、現代の工場労働者は、単純作業だけではなく、ロボットでは対応出来ない、高度技能を有することを要求される。単純作業の工場労働者は、一時的雇用で賄われる。

事務作業の電子化により、人手の掛かる事務作業は、少なくなった。そのため、大卒であっても、事務作業の職場は見つけにくい状態である。それが、大卒者の就活難民を産み出す理由であろう。

高卒がほぼ100%ならば、高卒は事務作業職員のための教育機関ではなく、大学入学前の、一般教養教育機関に変わるべきである。これは、現状、大学教養課程で行われている教育内容を、高校までで、済ませることである。教科書を、大学の1.2年生が使うレベルするということである。数学ならば、εーδ、物理ならば、微分方程式を使うと言うことになる。

社会科教育は、更に変更を要する。高校全入状態ならば、中高6年間で、歴史の断片ではなく、宗教や思想、科学との関わりなどの変遷と共に、その時代の人達の考えに基づいて教えて行くことに変える。現代の思想により過去を見るのではなく、過去の同時代人として考え、そして、現代社会との比較を出来ることを目標とする。この程度は、高校生で十分に可能な筈だ。

音楽、体育教育内容も変える。今の音楽教育は、兵隊さんが、軍歌を歌うのに困らない程度のものである。体育も同様である。音楽は、歌うことや、演奏することではなく、鑑賞するための教育に変える。即ち、音楽史を含めて、楽譜を読めること、和音理論、作品の歴史的背景など、知的な科目に変える。

体育は、スポーツ科学に基づく、生涯の健康維持のための教育科目にする。

技術家庭は、現状は、恐らく、盲腸科目であろうが、3D CAD、機械加工実習、機械組立、コンピュータプログラミング、電子回路設計、制作、評価、服飾デザイン実習、栄養学に基づく調理実習,ダイエット,サプリメント利用法など、本屋でハウツー本が売られていることを積極的に教える。宿題も多く出す。CAD設計、コンピュータプログラミングなら、課題として十分である。

英数国などは、技術家庭の実習をクリアするための、日陰の科目にしてもいい位である。

これらにより、高卒者には、高度な工場労働者になれる素養を、身につけさせる。

大学入学者は、全員、理系と文系の二つの学士取得を義務づける。高校で、一般教養は済んで居るので、4年あれば、二つの学士取得は可能であろう。

こうなると、どういうことが起きるか?子供たちは、塾や予備校に通っている暇が無くなる筈である。技術家庭、音楽、体育の宿題を課し、そのために英数国を利用する。

更に、全員一律の黒板方式の授業もやめる。eラーニングにより、一人毎に異なる内容にする。よって、受験テクニックだの、試験の裏技など効かなくなる。

これだけ、科目の内容を変えると、恐らく、親達は、子供たちが学んでいることを理解出来ない筈である。よって、モンスターな親が、怒鳴りこんで来るリスクも減る。

日本人の頭を19世紀の遺物から、21世紀に合致したものに、一気に変える必要がある。

問題は,現場の教諭の多くが,21世紀文明に対応していないであろうと,予想できることである。