一般教養を教えない日本の学校の不思議

日本の教育問題の根源は、高校は大学入学のための予備校となり、中学校は高校入試のための予備校をなっていることである。中学校と高等学校の進路指導とは、ある生徒の入れる進学先を探すことである(今は知らないけど、以前はそうであった)。生徒の将来なんて、一切気に掛けずに、『君の成績ではこの程度の学校だね』とすることである。

日本の進路指導の不思議の一つは、学校側も生徒も親も、進学先に『文系』と『理系』という風に、何のためらいも無く区別することである。

中学生や高校生のレベルで、君は文系、君は理系なんて区別が付くものか? 子供たちの将来性を勝手な型にはめて区別してないか?

このことが気になって、『リベラル・アーツ』と言うことばをWikiで引いてみた。

一般にリベラル・アーツとは日本語で、『一般教養』とか『教養課程』とかに訳される。なんか、一般教養とかいうと、仕事に結びつかない退屈な勉強のように思えてしまう。 この訳語は『大辞林』による。なんか文系の匂いのする勉強な感じである。

一方、WIkiでは、

古代ローマにおいて、「技術」(ラテン語: ars)は、手の技である「機械的技術」(アルテース・メーカニカエ、artes mechanicae)と、「自由人の諸技術」(アルテース・リーベラーレース、artes liberales)とに区別されていた。

後者を英語に訳したものが「リベラル・アーツ」であるが、その起源は、古代ギリシアにまで遡る。プラトンは、体育、音楽やムーシケー(文芸)とは別に、哲学的問答を学ぶための準備として、17、18才までの少年時代に、第1科目として数論(1次元)と計算術の研究である算術、第2科目として平面(2次元)に関する研究である幾何学、第4科目として円運動に関する研究である天文学の4科目を特別に訓練する必要があると説いた[1][2]。プラトン自身によれば、上記4科目の訓練は、手工業者や商人のための機械的技術の訓練と区別されるだけでなく、少年に対しても決して強制してはならず、自由な意思に基づくもので、何より自身が理想とする哲人国家論における統治者のための教育としての意味を有しており、「数学的諸学科の自由な学習」という意味合いであった[3]。

ところが、古代ギリシア社会においては、自由人とは、同時に「非奴隷」であることも意味していたことから(そのため今日的な意味で「自由」の概念を捉えると、「自由人の諸技術」の原義はわかりにくいものになる)、この「数学的諸学科の自由な学習」が「自由人の諸技術」としてとらえられるようになり、その後、ローマ時代の末期の5世紀後半から6世紀にかけて、7つの科目からなる「自由七科」(セプテム・アルテース・リーベラーレース、septem artes liberales)として正式に定義されるに至ったのである。

自由七科はさらに、おもに言語にかかわる3科目の「三学」(トリウィウム、trivium)とおもに数学に関わる4科目の「四科」(クワードリウィウム、quadrivium)の2つに分けられる。それぞれの内訳は、三学が文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽である。

などと、書かれている。これって、古代ギリシャやローマ、その後のヨーロッパ中世においては、数学がリベラル・アーツの中心であったことである。このWikiの記事を書いてくれた人に感謝する。

話を戻す。

日本の中等教育の最大の課題は、生徒にリベラル・アーツをきちんと教え込まないことである。そのため、大学が工学部でありながら、化学系だったりすると、対数の計算もできずに卒業させる大学でさえあるのだ。 ましてや、早いうちから、君は文系志望ねと、なったら、数学や科学に一切労力を払わずに、大学を卒業するのである。対数どころか、三角関数や微積の概念でさえ理解しようともせずに、大切な若い頃を過ごすことになる。

これが何をもたらすか?日本人の知性の低下である。戦前の学制はリベラル・アーツをしっかり教えていた。更に、日本の古典や漢籍も教えていた筈である。なのに、今や、高校レベルの数学も分からない。文語の読み書きもできない(私もできないけど)、漢文なんてもっとだめ。じゃ、英語はというと、使える英語力ではない。

一体、日本の学校って、何を目標に勉強を教えているんだ? 対数も分からない学生を受け入れる企業のことを考えたことがあるのであろうか?

これに対して、最大のネックは、小中高の教諭、特に、文系の科目を教える教諭が、『数学なんて世間で使わない』なんて、生徒に刷り込みすることである。 あんたの生活では必要ないだろうけれど、生徒の将来では必要になるときがある。ワーキングプアの根っこだって、結構こんなところにある。

中学校と高等学校は、リベラル・アーツをしっかりを教え込む場に戻る必要がある。 そのためには、大学入試問題を難しい良問とすることが必須でもある。

日本の将来において、最も感性の高い中高生時代に、しっかりと勉強させることは、非常に重要である。

これまでに、一体何人の若手エンジニアに三角関数と対数と微積を教え直しただろうか? 場合によっては一次関数まで戻って教えたこともある。 如何に無駄なことを、学校は企業にさせているか。

生徒たちにとって、如何に機会の均等を奪われているか? 

せめて、二次関数と三角関数と対数位、理解させて高校を卒業させて欲しいものである。

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「一般教養を教えない日本の学校の不思議」への1件のフィードバック

  1. feeling
    日本人に関する ‘有ること’ と ‘無いこと’。

    感性があって、理性がない。
    感想を述べるが、理想を語らない。

    現実の内容はあるが、考え (非現実) の内容はない。
    事実は受け入れるが、真理は受け入れない。

    実学 (技術) は盛んであるが、哲学は難しい。
    実社会の修復はあるが、理想社会の建設はない。

    現実の世界は信頼するが、非現実の世界は信じない。
    現実の内容を再現すれば、それは模倣である。
    考え (非現実) の内容を実現 (現実化) すれば、それは創造である。
    模倣力はあるが、創造力がない。

    「今ある姿」を語るが、「あるべき姿」は語らない。
    私語・小言は好むが、公言・宣言は好まない。
    歌詠みは多いが、哲学者は少ない。

    丸暗記・受け売りの勉強はあるが、考える力・生きる力がない。
    学歴はあるが、教養はない。
    序列判断はあるが、理性判断はできない。

    学歴は序列判断の為にあるが、教養は理性判断の為にある。
    学歴社会というのは、序列社会の言い換えにすぎない。
    序列順位の低いことが恥と考えられている。サムライ社会のようなものか。
    理性がなくても「恥を知れ」(Shame on you!) と叱責を受けることのない恥の文化が存在する。

    民の声を代弁する議員は多いが、政治哲学はない。
    総論 (目的) には賛成するが、各論 (その手段) には反対する。

    理想 (非現実) は、現実に合わないと言って受け付けない。
    現実の内容を根拠にして、理想を捨てる。
    意見は個人個人で異なる。だが、小異を挙げて、大同を捨てる。

    恣意 (私意・我儘・身勝手) が有って、意思がない。
    恣意の力 (大和魂) に期待をかけるが、意思の力は認めない。
    意思決定は困難を極め、多大な時間を浪費する。

    「個人の意見は通らない」と言うが、個人を選出する意味が理解できていない。
    意思があれば、手段がある。意思がなければ、手段はない。

    この国には、何でもあるが、ただ一つ夢 (希望) がない。
    この国には、現実はあるが、非現実がない。
    日本語には現実構文の内容だけがある。日本語脳は、片輪走行である。

    http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
    http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

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